2011年3月4日 星期五

陸鷲‧一式隼

我看,最近隼(はやぶさ)這名字又紅起來了。當列車名也不錯啦,不過這次在美國有看到活的隼,是鳥,不是灰機啦。但說歸說,我在西雅圖的博物館,真得看到有名的陸鷲,一式隼了。以前台大校園內曾有一架,後來沒了。可惜可惜。日本陸軍在二戰時,由中島製造的一式戰鬥機,愛稱就是這隼,那個細長的造型,真的就是隼來著準沒錯。隼的部隊,最有名的當屬加藤隼戰鬥隊了,還有電影拍攝呢。而加藤隼戰鬥隊對於後世的影響,也反映在我地球防衛軍宇宙戰艦的艦載部隊上,若我沒記錯,宇宙戰艦上也有個加藤哩。




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一式戦闘機(いっしきせんとうき、いちしきせんとうき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。キ番号(試作名称)はキ43。愛称は隼(はやぶさ)。呼称・略称は一式戦、一戦、ヨンサンなど。連合軍のコードネームはOscar(オスカー)。開発・製造は中島飛行機[1]。

四式戦闘機「疾風」(キ84)とともに帝国陸軍を代表する戦闘機として、太平洋戦争(大東亜戦争)における主力機として使用された。総生産機数は5,700機以上で、旧日本軍の戦闘機としては海軍の零戦に次いで2番目に多く、陸軍機としては第1位。

1937年(昭和12年)12月、陸軍からキ43の試作内示が行われ、中島では設計主務者として小山悌課長を中心とする設計課が開発に取り組み、研究課空力班からは戦後に国産ロケット開発で大きな足跡を残すことになる糸川英夫技師が設計に協力した。引き込み式主脚以外の基本構造を前作の九七式戦闘機(キ27)から踏襲したことから、開発は比較的順調に進み、翌1938年(昭和13年)12月に試作1号機が完成、同月12日に初飛行している。しかし、試験飛行の結果、ノモンハン事件で活躍した九七戦に比べ航続距離が長いものの、最高速度の向上が僅かな上に旋回性能も劣ることが判明したため、キ43試作機型をそのまま採用することは見送り、より強力なエンジンに換装して高速化を図った改良型(キ43-II)の開発を進めることが一旦決定された。

ところが、日本の南進計画に伴い南方作戦にて遠隔地まで爆撃機を護衛可能、および制空することが出来る航続距離の長い遠距離戦闘機の要求が参謀本部から発せられた。アメリカ軍・イギリス軍の新鋭戦闘機に対抗可能と考えられたキ44(二式単座戦闘機「鍾馗」)の配備が間に合わないことと[3]、飛行実験部実験隊長・今川一策大佐の進言もあり、1941年(昭和16年、皇紀2601年)に、一転してキ43試作機型に最低限の改修を施した機体が一式戦闘機として制式採用されることになった。このため、太平洋戦争開戦時に一式戦が配備されていた実戦部隊は僅か2個飛行戦隊(飛行第59戦隊・飛行第64戦隊)であったが、旧式化した九七戦に替わり改編が進められ、名実ともに陸軍航空部隊(陸軍航空隊)の主力戦闘機となった。

ちなみに、登場したばかりの頃は一式戦の存在自体が知られておらず、また当時の陸軍機は胴体に国籍標識(ラウンデル)の日章を記入することをやめていたため、海軍ばかりか身内の陸軍操縦者からも敵新型戦闘機と誤認され、味方同士の真剣な空中戦が起きるなどの珍事もあった。この為1942年(昭和17年)中頃からは陸軍機も再度胴体に日章を描く様になっている。また、外見が類似していることから、交戦相手の連合軍機操縦者から零戦と誤認される事例が多く、またビルマ方面のイギリス軍からは「ゼロ・ファイター」に類似した「ワン・ファイター」ということで「ゼロワン」と、それ以前にフライング・タイガース(AVG)によって「ニュー・ゼロ」と呼ばれたことも一時期あったという。

戦前中の日本では主に軍内部やマスメディア上において、陸軍航空部隊自体や各飛行部隊、航空機から空中勤務者などの比喩表現として「鷲(荒鷲・陸鷲)」「鷹」「隼」「翡翠」といった鳥類の呼び名が盛んに用いられており[4]、それに呼応するように一般国民に対する宣伝のため、陸軍航空本部発表の正式な愛称として一式戦は「隼」と命名され(発案者は航本報道官西原勝少佐)、太平洋戦争開戦まもない1942年3月8日には「新鋭陸鷲、隼、現わる」の見出しで各新聞紙上を賑わした。

太平洋戦争中には戦況を報じる新聞・ラジオ放送・ニュース映画・雑誌・絵本・軍歌(戦時歌謡)などといった各種メディアのみならず、加藤隼戦闘隊こと第64戦隊の戦隊長として南方作戦で活躍し軍神と称された加藤建夫少将や、「ニューギニアは南郷で保つ」と謳われた第59戦隊飛行隊長・南郷茂男中佐に代表されるエース・パイロットの活躍や、1942年10月公開の映画『翼の凱歌』、1943年(昭和18年)公開の記録映画『陸軍航空戦記 ビルマ篇』、1944年(昭和19年)3月公開の映画『加藤隼戦闘隊』などといった実機の一式戦が出演する映画作品を通じ、一式戦「隼」は太平洋戦争中、最も有名な日本軍の戦闘機として日本国民に広く親しまれることとなった。

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