2011年9月10日 星期六

尋找戰艦武藏的誕生地

從小因為我爸愛做模型的關係,所以對於日本艦船多少有些認識。老爸的辦公室有一隻很大的大和號,還鍍了金屬超炫的。當然,大和號的模型也是做過。但對於我來講,因為我們這個時代玩的是宇宙戰艦大和號,所以我做的模型大部分就是會飛,而且有波動砲的宇宙版了。之前去日本,曾到廣島的吳港找過大和號誕生地。那個船塢很清楚地寫著大和號誕生地,所以地點無誤。但是大和號的姊妹艦武藏,知名度就低很多,而他的誕生地是在長崎的三菱造船。三菱因為戰後被解散過,所以更增添神秘。網路上一般可以查到武藏的誕生記錄如下(取自日文維基百科):

1934年12月、大日本帝国(以下日本)は第二次ロンドン海軍軍縮条約の予備交渉が不調に終わったことを受けてワシントン海軍軍縮条約から脱退し、列強各国が軍艦の建造を自粛していた海軍休日は終わった。1936年12月26日、上田宗重海軍艦政本部長が三菱重工最高幹部を招き、マル3計画における巨大新型戦艦建造について事前準備を依頼した[3]。1937年開催の第七〇回帝国議会で予算が承認され、3月29日に計画名「A140-F6」から「第一号艦」「第二号艦」と仮称された[4](予算詳細は戦艦「大和」を参照)。9月8日、海軍艦政本部から三菱重工業に「A140-F6」が正式発注される[5]。予算見積折衝を経て、1938年3月29日、「第二号艦(武蔵)」の建造が始まった[6]。三菱重工業長崎造船所建造の戦艦としては、金剛型戦艦「霧島」、伊勢型戦艦「日向」、加賀型戦艦「土佐」、天城型巡洋戦艦「高雄」[7](八八艦隊未完成艦)に続いて5隻目となるが、「土佐」や「高雄」の4万トンから大和型7万トンへの飛躍には、ドッグ拡張を含めた技術者の研究と努力が必要だった[8]。

本艦は設計段階から司令部施設の充実がはかられ、第一号艦で弱点と指摘された副砲塔周辺の防御力も強化された[9]。「武蔵」艤装員だった千早正隆は特に副砲の防御力を懸念し、有馬馨艤装員長(初代艦長)と共に副砲の撤去を訴えている[10]。艦政本部の清水技術中将が山本五十六連合艦隊司令長官に副砲防御力問題について相談すると、山本は「副砲を撤去して蓋をすれば良い」と述べた[11]。これについて牧野茂(大和型戦艦設計陣)は山本と清水の会談は知っていたが内容についてまでは知らず「検討に値する提案なのに惜しい事をした」と千早に語っている[12]。また司令部施設の充実について、千早は「暴論、定見を欠いた」と評している[13]。1942年1月、連合艦隊司令部から拡張要求があった時点で「武蔵」は「大和」と同じ内部構造だったが、内装の入れ替えに駆逐艦1隻分の工事費増加、3ヶ月の竣工遅延が生じた[14]。宇垣纏連合艦隊参謀長も「大和に比して、当司令部の意見に従ひ改善せられたる点、相当多し」と記している[15]。

姉妹艦「大和」や「110号艦(信濃)」同様本艦の建造は極秘とされ、艤装員(建造中の艦乗組員)は長崎造船所を秘匿した「有馬事務所」に勤務するよう命じられた[16]。機密にたいする警戒は厳重で、有馬馨艤装員長ですら、腕章を忘れると検問を通過できなかった[17]。外部に対しては、さまざまな方法で「武蔵」を隠す手段がとられた。船台の周囲には漁具(魚網等)に使う棕櫚(しゅろ)を用いた、すだれ状の目隠しが全面に張り巡らされた。全国から膨大な量の棕櫚を極秘に買い占めたために市場での著しい欠乏と価格の高騰を招き、漁業業者が抗議[18]。警察が悪質な買い占め事件として捜査を行ったとされる。また、棕櫚の目隠しが船台に張り巡らされると、付近の住民らは「ただならぬことが造船所で起きている」と噂し、建造中の船体を指して「オバケ」「魔物」と呼んでいたという[19]。

また、対岸にはアメリカ・イギリスの領事館があったため、目隠しのための遮蔽用倉庫(長崎市営常盤町倉庫)を建造するなど、建造中の艦の様子が窺い知れないような対策を施した[20]。長崎住民に対する監視も厳しく行われ、造船所を見つめていると即座に叱責を受けて体罰を受けたり[21]、逮捕されることもあった[22]。造船所を見渡す高台にあったグラバー邸や香港上海銀行長崎支店を三菱重工業が買い取った事例もある[23]。

姉妹艦「大和」よりも遅れて起工された本艦には、「大和」建造中に判明した不具合の改善や、旗艦設備の充実が追加指示された[20]。しかし、もとよりドック内で建造された「大和」と異なり、船台上で建造された武蔵は、「船台から海面に下ろし進水させる」という余分なステップを踏まねばならなかった。重量軽減のため、舷側や主要防御区画の装甲を進水後に取り付けたほどである[24]。更に工事の途中で太平洋戦争が勃発した為、1942年12月の完成という予定から同年6月に工期を大幅に繰り上げるよう厳しく督促された[25]。そこで厳重な機密保持の中、作業に当たった人々は、超人的な努力で事に当たり、見事に成し遂げたのである。これらの経緯は吉村昭の『戦艦武蔵』および牧野茂/古賀繁一監修『戦艦武蔵建造記録』(アテネ書房)に詳しい。

このような厳重な機密保持のもとではあったが、新人製図工による図面紛失事件や[26]、熟練工でも困難な進水台の作成など、建造には常に障害が相次いだ。進水時には船体が外部に露見してしまうため、当日(1940年11月1日)を「防空演習」として付近住民の外出を禁じ、付近一帯に憲兵・警察署員ら600名、佐世保鎮守府海兵団隊員1200名などを配置した[27]。このような厳重な警戒態勢の中で、及川古志郎海相、豊田副武艦政本部長らが列席のもと、進水式は挙行される。皇族の伏見宮博恭王でさえ、平服で式場に入り、その後軍服に着替えるという徹底ぶりであった[28]。

進水時に進水台を潤滑する、獣脂の調製・製造にも多大な労力が必要だった[29]。錨鎖をあらかじめ減速用の重りとして付け、長崎造船所第二船台から狭い長崎港内に滑り込んだ武蔵の船体は、予定どおり艦尾をやや左に振って停止したが[30]制動までに44mよけいにかかった[31]。この時、周辺の海岸に予想外の高波が発生した。周辺河川では水位が一気に30センチ上昇したところもあり、船台対岸の浪の平地区の民家では床上浸水を生じ、畳を汚損したとの被害報告も確認されている[32]。進水式は映像として記録されたが、終戦時に焼却された[33]。無事に進水した際には、関係者の涙が止まらなかったという[34]。

進水後は日本郵船の大型貨客船「春日丸」(後に空母大鷹に改造)に隠されながら移動し、向島艤装岸壁で工事が進められた[35]。艦中央部右舷に設置された司令部施設に関しては、大和を建造中の呉工廠が内装への自信を持てず、豪華客船建造の実績がある長崎三菱造船所に依頼して、「武蔵」と全く同じ調度品を揃えて「大和」に搭載した[36]。それでも「武蔵」の方が調度品が良かったという証言がある[37]。真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発すると、長崎の住民も「武蔵」のことを公然と話題に出すようになっていった[38]。

艦内には「武蔵神社」があり、御神体は武蔵国氷川神社から分霊したものだった[39]。位置は上甲板右舷、長官室・艦長室前の通路上である[40]。竣工式に氷川神社の神主が招かれており[41]、また伊勢神宮、長崎諏訪神社の系列社もあったとされる[42]。

戦艦「武蔵」は、現在までのところ、日本が建造した最後の戦艦である(海外では第二次世界大戦後に戦艦「ヴァンガード」(イギリス、1946年)、リシュリュー級戦艦「ジャン・バール」(フランス、1949年)が竣工している)。

看了一大堆,大致上可以找出,武藏是誕生於長崎的三菱造船所之第二船台。第二船台在哪兒?跟船塢又不一樣啊。找啊找,最後才發現是在下圖中下面那一堆鐵架之處。

這是美軍在1945年畫的圖,A點是也。B點是美國等各國領事館聚集地,為了遮掩武藏,日本曾蓋了倉庫來遮,此外C點是香港上海銀行,也曾被三菱買下為了對岸的機密。至於D是之前介紹過的,現在的海洋氣象所。E是火車站,至於F,先賣關子。

再看一下美軍的圖。

放大瞧瞧。

這第二船台就是長這樣子


再來複習一次,位置就在打星號之處!

那現在在哪兒呢?一樣是三菱造船的位置,你從海上看到的BERTH No.2就是了。

可是,還有什麼遺跡可尋呢?放大看,看到後面的鐵架嗎?那個就是了。

其實三菱造船現在還在造軍艦哩!


這一棟就是為了保密,曾被三菱買下的香港上海銀行。


好了,放一下廣島吳港的大和號誕生地。

這是大和號博物館內的模型。


最後,看一下武藏的遺影。右是武藏,左是大和。

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