2012年5月5日 星期六

廢墟迷的聖殿-軍艦島(端島)

我相信,對於「建築廢墟迷」來說,日本長崎半島西邊約四點五公里的一座無人島,俗稱「軍艦島」的端島,一定是超想去拜訪的聖地吧!這座外型酷似軍艦(被認為與戰艦土佐極似)的島嶼,從明治時代就開始了炭礦的採掘,也因此島上除了礦場的廠區外,也曾經住有最多達五千三百人的紀錄,是個人口密度高過東京都區的密集居住地。

這個海上島嶼在三菱於1890年開始採集之後,積極地開發,大部分的炭礦礦脈是位於海底,而這座島就成為礦場用地與勞動人口及其眷屬的居住地。然而,隨著能源需求從煤炭轉為石油後,這座海上炭礦在一九七四年一月關閉,同年四月所有人都遷出,成為一座孤懸海上的無人島。

隨著多次颱風的侵襲,以及歲月的摧殘,軍艦島逐漸地變為一座廢墟般的海上樂園,是廢墟迷最想拜訪的聖地。然而事實上,它一直沒有開放遊客上岸參觀。這樣長眠於長崎外海的島嶼,經過了將近三十五年的沈睡,在2009年被列為世界遺產的暫訂LIST後,2009年4月下旬局部對外開放。

去年(2011年)暑假我去日本九州旅行時,一到長崎就很想去軍艦島。不過之前冬天去時,因為海上風浪大根本船也沒開。這次去發現早上的也沒開,但聽說下午那班有開。於是趕搭計程車去港邊加入這個團。現在若要去軍艦島參觀,一定得參加船公司所安排的行程,價錢並不便宜,一個人大約要四千日幣,因為單趟航程就要四十分鐘,去回加上島上約半小時觀光,一整個半天就去撂撂。不過,這遊船也包含長崎港的觀光導覽,到了軍艦島還會繞一圈讓大家慢慢拍,因為島上開放的區域並不多,所以這繞一圈的軍艦島拍照是非常必要。

關於這座廢墟軍艦島,維基百科上的介紹如下:

端島(はしま)とは、長崎県長崎市(旧高島町)にある島である。かつては海底炭鉱によって栄え東京以上の人口密度を有していたが、閉山とともに島民が島を離れたため、現在は無人島である。軍艦島(ぐんかんじま)の通称で知られている[2]。

端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されている[12]。『天保国絵図』にも「端島」とある[13]。

端島での石炭の発見は一般に1810年(文化7年)のこととされる(発見者は不明)[14][15][16]が、『佐嘉領より到来之細書答覚』によると、1760年(宝暦10年)に佐賀藩深堀領の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領の野母村・高浜村(旧野母崎町・現長崎市)が端島・中ノ島・下二子島(埋め立てにより現在は高島の一部となっている)・三ツ瀬の領有をめぐって争いになり[17]、その際に両者とも「以前から自分達の村で葛根掘り、茅刈り、野焼き、採炭を行ってきた」と主張[17]、特に後者は「四拾年余以前」に野母村の鍛冶屋勘兵衛が見つけ、高浜村とともに採掘し、長崎の稲佐で売り歩いていたと述べている[17][12]。なお当時は幕府領では『初島』と、佐賀領では『端島』と書いていたようである(『佐嘉領より到来之細書答覚』『安永二年境界取掟書』『長崎代官記録集』)[12]。
端島(軍艦島)の埋立の歴史

このように石炭発見の時期ははっきりしないが、いずれにせよ江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であった[14]。1869年(明治2年)には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで、大風による被害のために廃業に追い込まれた[18]。36メートルの竪坑が無事に完成したのは1886年(明治19年)のことで、これが第一竪坑である[18]。

1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡[19]。端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となる。譲渡後は第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって[20]端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜く(1897年)[20]までに成長した。この頃には社船「夕顔丸」の就航、蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始(1891年)、社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備されるとともに、島の周囲が段階的に埋め立てられた(1897年から1931年)。

1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設された。この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道[21]しており、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいる[21][15]ことから、「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられる。ただし、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく(30号棟と日給社宅のみ)、大半は木造の平屋か2階建てであった。

大正期から朝鮮人労働者が増え、第二次世界大戦中には徴用と吉田飯場(朝鮮人の吉田が経営する飯場)を合わせて500人から600人ほど、自由渡航で来た所帯持ちの朝鮮人労働者も80人ほど働いていた。中国人労働者も、1944年(昭和19年)に204人が徴用されてきた。朝鮮人や中国人に限らず日本人にも言えることだが、給料や食事、休日などの虚偽の好条件で騙されてやってきた労働者が多く、劣悪な環境下での作業で事故死・病死も多発し、「島抜け」(泳いで島を脱出すること)や自殺をする者も少なくなかった。ただし、実際に「島抜け」が成功した例は少なく、大半は溺死するか、監視する職員に捕まり殺された。労働者、特に朝鮮人・中国人の徴用者は、端島や高島を「監獄島」と呼んだ。端島炭鉱から後に長崎市内の造船所へと移された朝鮮人労働者によると、同じ三菱の経営ながら造船所と端島炭鉱の待遇の差は「天と地の差」であったという。朝鮮人と中国人が手を組んで日本人に抵抗しないよう、朝鮮人は端島の北端、中国人は端島の南端の寮にそれぞれ収容され、作業現場も交代時間も重ならないようにされた。

1945年(昭和20年)6月11日にアメリカの潜水艦「ティランテ」が、停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を魚雷で攻撃し撃沈したが、このことは「米軍が端島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」という噂話になった[22]。

端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭[23]。人口が最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人の人口がおり、人口密度は83,600 人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した[24]。炭鉱施設・住宅のほか、小中学校・店舗(常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていた)・病院(外科や分娩設備もあった)・寺院「泉福寺」(禅寺だがすべての宗派を扱っていた)・映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していた。ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に(端島の住民のためのものが)建設された。

1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退。1965年(昭和40年)に三ツ瀬区域の新坑が開発され一時期は持ち直したが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年(昭和49年)1月15日に閉山した。閉山時に約2,000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、端島は無人島となった。しかしその後すぐに人がいなくなったわけではなく、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年の末まで続いた[25]。

近代化遺産として、また大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されている。廃墟ブームの一環でもしばしば話題に上る[27]。現在は無人化により建物の崩壊が進んでいる[28]。ただし外壁の崩壊箇所については、一部コンクリートで修復が行われている。

島は三菱マテリアルが所有していたが、2001年(平成13年)、高島町(当時)に無償譲渡され[29][30]、現在は長崎市の所有地である(市町村合併により高島町が長崎市高島町になったため)。建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立ち入りは長らく禁止されていた。2005年(平成17年)8月23日、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、荒廃が進む島内各所の様子が各メディアで紹介された[31][32]。島内の建築物はまだ整備されていない所が多いものの、ある程度は安全面での問題が解決され、2008年に長崎市で「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」が成立したことで、島の南部に整備された見学通路に限り、2009年(平成21年)4月22日から観光客が上陸・見学できるようになった(条例により、見学施設以外は島内全域が立入禁止[33])。解禁後の1ヶ月で4,601人[34]、半年で34,445人[35]、1年で約59,000人[36]が上陸している。なお、上陸のためには風や波などの安全基準を満たしていることが条件になっており、長崎市は上陸できる日数を年間100日程度と見込んでいる[34]。

一部で世界遺産への登録運動が行われ、2006年8月には経済産業省が端島を含めた明治期の産業施設を地域の観光資源としていかしてもらおうと、世界遺産への登録を支援することを決定した。2008年9月に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載されることが決まり[37]、2009年(平成21年)1月に記載された。

島上的建築特色,維基百科的說明為:

島内の建築物

端島に残る集合住宅の中には、保存運動で話題になった同潤会アパートより古いものがいくつか含まれている。7階建の30号棟は1916年(大正5年)の建設で、日本初の鉄筋コンクリート造の高層アパートである[40](ただし1916年の竣工時は4階建て)。

30号棟を皮切りに、長屋を高層化したような日給社宅(16号棟から20号棟、1918年)など、次々に高層アパートが建設された。第二次世界大戦前頃、国内では物資が不足し統制が行われ、鉄筋コンクリート造の建物は建設されなくなったが、この島では例外的に建設が続けられ、1945年竣工の65号棟は端島で最大の集合住宅である。なお、端島で鉄筋コンクリート造の住宅が建設されたのは、狭い島内に多くの住人を住まわせるため建物を高層化する必要に迫られていたため[41]であり、鉱長や幹部職員などのための高級住宅は木造であった[41]。

高層アパートの中には売店や保育園、警察派出所、郵便局、パチンコ屋などが地下や屋上に設けられたものがいくつかあった。また、各棟をつなぐ複雑な廊下は通路としても使われ「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」と言われたという。

どの建物にも人員用エレベーターは設置されておらず[42](1945年建設の65号棟に計画されたが、資金不足で結局設置されなかった。なお小中学校には、閉山までのごく短い期間、給食用エレベーターが設置された)、また個別の浴室設備(内風呂)を備えるのは鉱長社宅の5号棟(1950年)および幹部職員用アパートの3号棟(1959年)、職員用集会宿泊施設の7号棟(1953年)、そして島内唯一の旅館「清風荘」だけであった。トイレも多くが落下式であった[43]が、閉山時には半数ほどの住宅で水洗式が導入されていた。炊事場は閉山まで共同のところが多かった。

岩山の南端、貯水槽の隣に灯台があるが、これは閉山によって夜間の島の明かりが無くなったため、その翌年(1975年)に建てられた[44]もので、正式名称は『肥前端島灯台』[44]。現在の灯台は、1998年に強化プラスチック製で建て替えられた2代目である[44]。

木造や鉄骨造で建設された建物は、風雨のほか、防水技術の問題[45]や無人化によって維持管理がなされなくなったこと[45]から急速に劣化しており、1号棟(端島神社)の拝殿をはじめ完全に崩壊したものが多い。なお、潮害対策として、建物外部に鉄製の部品が用いられることはほとんどなかった。鉄筋コンクリート造の場合も、その技術が未熟な時期のものも多く、配筋計画の問題[45]のほか、建材の入手難から海砂を混ぜていたこと[45]もあり劣化が進んでいる。56・57号棟に設けられたキャンチレバー(張り出しベランダ)は、その設計に不備があったため亀裂が入り、鉄パイプの支柱で補強されていた[45]が、閉山後その支柱も消失し、キャンチレバーが崩落するのは『時間の問題』とみられる[45]。

以下,就讓我們來看一下島上有那些有意思的建築廢墟與遺產。首先最重要的是這一棟。這一間稱為30號棟的建築,建於1916年的大正時代,是日本最初的鋼筋混凝土造公寓,是高層集合住宅的濫觴。完成時雖只有四樓,後來增建至如今可見的七層樓樣貌。

30号棟は、1916年(大正5年)に建設された日本初の鉄筋コンクリート造アパートである[48][49](日本初の鉄筋コンクリート造「高層」アパートとも)。当初は4階建てであったが、完成後まもなく7階建てに増築されている。島の南西部、岩山の南端の山麓に位置する。中央に吹き抜けをもち、上から見るとほぼ正方形に近い「ロの字形」をした建物である[50]。吹き抜けの周りを囲むようにロの字形の廊下があり、階段も吹き抜けに面している[50]。その周囲に巴形に住居が配置されている[50]。鉱員社宅として建てられたが、閉山時には下請飯場として用いられていた。7階建てだが部分的に地階もあり[50]、閉山時は売店が入っていた。戸数は140戸[50]、総床面積は3808.0平方メートル[50]。基本的な階の構造は、1K(6畳)が19戸と1K(4畳)が1戸と共同トイレ[50]。25号棟・26号棟・緑道(山通り)とは通路で繋がっている[50]。建物の南東側には、船着場に直通のトンネルの出口がある[50]。当時はまだ技術的に未熟であり、また材料や環境の悪さゆえ、最初に造られた下層階の劣化が速かったため、1953年(昭和28年)、上層階をそのままに下層階の鉄筋を取り替え、コンクリートを打ち直して改築している[51]。

在島的尾端(軍艦尾),是島上的中小學校。這座端島小中學校,因為島上面積狹小,所以蓋成高樓建築(稱為70號棟)。該建築完成於1958年,一至四樓是小學,五樓與七樓是中學,六樓是禮堂圖書館與音樂教室。

在小中學校旁的,是ㄇ字形的第65號棟。這棟建築最多時居住戶數有317戶,是礦員社宅的高密度象徵,屋頂還有幼稚園。維基百科的介紹如下:

65号棟は鉄筋コンクリート造の鉱員社宅で、端島で最大のアパートでもある[54]。コの字型をしており、最初に建設された北側の7階建て『報国寮』は、第二次世界大戦中にも関わらず建設が進められ1945年(昭和20年)に完成した[55]。その後8階・9階部分を増築(1947年)、東側を9階建てで増築(1949年)、東側に10階部分(屋上保育園)を増築(1953年)、南側を10階建てで増築(1958年)と、段階的に拡張している[55]。最終的には317戸、総床面積16895.5平方メートル(屋上・地下含む)[50]となった。計画時は北側の棟にエレベーターが設置される予定だったが、中止となりそのスペースは住居に転用された。上層階には、1941年完成の中央住宅(14号棟)で本格的に採用されたキャンチレバー(張り出しベランダ)が設けられている[54]。基本的な部屋の構造は2K(6畳2間)。4階と7階には緑道(山通り)への連絡通路が[55]、地下1階には理容室がある[50]。1958年(昭和33年)に完成した南側の棟は「新65号」と呼ばれていた[56]。端島では最も高い建物(10階建て)で、各戸に水洗式のトイレが完備されていた(北側・東側の棟は共同トイレ)。

這是明治時代的礦山事務所,目前已經崩壞傾頹。

這是第二豎坑坑口的棧橋遺跡。

這座島最高處,海拔47.7m,還有一座燈塔。

這是島上神社的殘跡。當島上還住著數千人時,信仰中心是這一座「端島神社」,每年四月三日的山神祭是島上的重要慶典。因為這地方根本沒開放,想拍照的話得用長鏡頭拍。

這是當年搬運煤炭的輸送帶支架遺跡。

以下,再放幾張彩色照片囉。軍艦島是我一直一直想去的地方,去年夏天的一次機緣,剛好船有開所以能上島。因為船班有限,很多人都說要事先預約。像我這種散客又只在長崎留一天的觀光客,要剛好海象OK船有開的機會,就真的要碰運氣了。畢竟,事先預約也可能天氣不好取消,你一趟日本旅行也無法在同一個城市留好幾天啊!不過,軍艦島真的大推,建築廢墟迷一定不可錯過。值得值得。



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